皆さんは、
人は生れながらにして「いい人」だと思いますか?
それとも
人は生れながら「悪い人」だと思いますか?
人間の根本は
「性善説」と
「性悪説」に分かれると言われています。
先にこのブログの一番伝えたいことを言うと
教育の本質は「性善であろうが性悪であろうが、性悪説で考えよう」ということです。
性善説とは・・・
孟子の「性善説」とは、あらゆる人に善の兆しが先天的に備わっているとする説である。善の兆しとは、以下に挙げる四端の心を指す。なお「端」とは、兆し、はしり、あるいは萌芽を意味する。
惻隠…他者の苦境を見過ごせない「忍びざる心」(憐れみの心)
羞悪…不正を羞恥する心
辞譲…謙譲の心
是非…善悪を分別する心
修養することによってこれらを拡充し、「仁・義・礼・智」という4つの徳を顕現させ、聖人・君子へと至ることができるとする。Wikipediaより
簡単に言うと
人は生まれながらにしてよい心をもっている!!!!
です。
性悪説とは・・・
性悪説(せいあくせつ)とは、紀元前3世紀ごろの中国の思想家荀子が、孟子の性善説に反対して唱えた人間の本性に対する主張。「人の性は悪なり、その善なるものは偽(ぎ)なり」(『荀子』性悪篇より)から来ている。
Wikipediaより
多くの人がしている勘違いしている「性悪説」の本当の意味
しかし、この中の「性善説」には語弊があります。
この言葉を作った人は
中国の思想家荀子の言葉です。
「人の性は悪なり、その善なるものは偽(ぎ)なり」
しかし、この性悪説の悪とは
「悪い」「いけないことをする」という意味ではなく
「弱い」という意味合いが強くあるのです。
また、偽とは、「偽物、悪いこと」と言う意味ではなく、「人の為す行い」という程度であると言うことです。
つまり、
「性悪説」は【人は生まれながらにして悪い心を持っている】
ではなく
【人は生まれながらにして弱い心を持っている】
という意味なのです。
教育は「性悪説」で考えると成功する。
例えば、子どもが努力せずにテストの点数が悪かった。勉強をしないでゲームばかりしていたとします。
「性善説」に立つと
元々この子は、生まれ持って努力や怠けずに自分をを律する心をもっているという前提があるため
「なぜ努力しなかったんだ」と子供を責めることになります。
勉強しなかったのは誰が悪いのかといえば
「努力できる能力を持っているのに、勉強しなかった子供」になるのです。
しかし、性悪説の立場に立つと
子どもは生まれながらに弱い生き物であるという前提があるため
「勉強以外に流されてしまう環境を作ってごめんね」と子供を責めるのではなく、自分自身を反省することができるのです。
誰が悪いのかというと
「努力ができずに怠けてしまったのは、ゲームを勉強する環境や時間から切り離していなかった自分」
にすることができるのです。
すると、自分自身の改善を行うことができるようになるのです。
逆に性善説で子どもを見ると悪いことしか起きない。
逆に、性善説で子供をみると、悪循環に陥ります。
子どもが勉強しない
→子供が怠けている(と感じる)
→親が叱る
→ゲームできてしまう環境は変わらないから子どもは変わらない
→また叱る
→怒られないように隠れてゲームをする
→見つかってさらに怒られる
→またさらに隠れて行うようになる、もしくはキレて対立する
→親が根負けするか子どもが親に屈するかまで戦いが続く
こうやって子供の心がもともと強い心を持っているという前提に立つと
どうしてもその心を元に戻そうとしてしまうのです。
そのまま負のスパイラルに陥ることになります。
だからこそ
「人間は生まれながらにして弱い生き物だ」
という前提に立ち
「そんな子供でもどうしたら勉強できるような環境を整えることができるかな」
と、こちら側ができることを考え始めると子供はどんどん成長していきます。
子供を責めても何も変わりません。
子供の課題もあるかもしれませんが、それに関わる大人の課題が0なはずありません。
そこに目を向けて改善していけるかどうかが、子どもを本当の意味で成長させられる人かどうかの分かれ道なのではないでしょうか?
よかったら参考にして頂けたら幸いです。